後續戰略的幾點說明[第1頁/共2頁]
第一,遵循而後的記錄,日軍乃是退到海邊加固城池,以備來年再戰。
日本軍を1599年に再度朝鮮に調派する號令を発します。(很較著,是打算兩年後再度打擊,以勞敵師)
明軍に大勝した日本軍は、築城を完成させ防衛體製を強化すると再度の出兵に備えて半數以上の軍勢が日本本土に帰還し2も達成されました。(此戰過後,日軍打算補葺城池,將半數兵力撤回本土)
ここで、慶長の役の作戦の勝利を見た秀吉は、新たに明本土から増援された明軍の撃滅を計畫し、さらに明?朝鮮軍を疲弊させるべく、本土で歇息をとっていた
這句話意義是到當時(就是南撤後),除了幾座據點的城主留下戍守外,其他軍隊皆返國療養。
附原文:
『慶長三年蒲月二十二日付朱印狀(鍋島家文書)』「度々仰せ遣わされ候ごとく、來年大人數遣わされ働の儀、仰せ付けらるベく候間、其の中いずれの城々も丈夫に在番肝用に候
我查了些質料,總結了以下兩個能夠的啟事。
眼看著影島海戰就要結束了,接下來將是慶長之役的轉折點“稷山之戰”,雖說借用了汗青上的稱呼,但詳細顛末絕對分歧,大師就彆急著百度了。
『慶長三年三月十三日付朱印狀(立花家文書)』「來年は禦人數指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けららるべく候。其の意を得、兵糧、玉薬沢山に覚悟仕り、在庫すべく候なり
這條我不太佩服,正如汗青上所說,日軍前腳撤退,明朝聯軍便當即構造雄師反擊,蔚山之戰,泗川之戰,順天之戰便是證明,底子不會給日軍留偶然候構築工事。
第二,也是本書中我籌辦采取的觀點,秀吉如此乃是疲敵之計,詳細論證見下:
(それが済んだら仕置きの城の守りを固め、在番の城主を決めてそれ以外は帰國せよ。)
1、赤國不殘悉一篇ニ成敗申付、青國其外之儀者、可成程可相動事。
不過恪守城池,輪換返國療養倒是有些蹤跡可尋,按照慶長二年仲春二十一日秀吉頒給立花宗茂的朱印狀來看,確是出於療攝生息的考慮。
1、右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割符、丈夫ニ可申付事。
詳細根據便是上麵所列的質料:
這條最首要,秀吉的作戰目標是全羅道完整占據,忠清道和京畿道恰當攻占。稷山之戰光陰軍亦達到初期目標,隨後仍向北進入京畿道竹山一帶,也算是“恰當攻占”吧,以後纔是雄師南撤,可見稷山之戰對日軍並未形成相稱大的影響,也不存在所謂的敗北南撤一說。